Home

拷問と死刑との闘い
あらゆる拷問と死刑は、人間の姿をした血に飢えた獣による
事実上の殺人である。

サイト内全文検索  AND OR

活動紹介 >> 人口過剰問題 >> 拷問と死刑との闘い

あらゆる拷問と死刑は、
人間の姿をした血に飢えた獣による
事実上の殺人である。

拷問と死刑という狂気を阻止せよ

惑星地球とすべての
生命の未来は危険にさらされている。
時計は今まさに12時を打っているのだから!

 地球上に生命がいない?

 虚ろで、焼き尽くされ、化学物質と放射能に汚染されている?

 致命的な疫病が蔓延し、疲弊し、搾取され、荒廃し、破壊されて、いかなる生命もいない?

 今後あらゆる種類の破壊を阻止し、すでに破壊されたものを再興して生命をふたたび与えるために、今こそ我々が決断し行動しなければ、生命のいない地球というこの恐ろしい幻影は近い将来まさに現実となるであろう。そうなれば、権力欲が強く、戦争をけしかけることを好み、ひたすら快楽や娯楽や利欲を追求する無責任な人間が、ただ自己の利益のために惑星や生命を、死と、そして全面的な破壊と破滅にゆだねていく狂気の沙汰を押しとどめることができなくなる。そのとき、この狂気のプロセス、惑星や生命の全面的破壊のプロセスはとどまるところを知らず、急速に、容赦なく、苛酷な結末に至るまで進み続ける。

 危険にさらされているのは今日の人間や生命だけではなく、酸性雨によってすでに破壊された何万ヘクタールもの森林だけでもない。

 およそ一切の生命、つまり、
      惑星そのもの、
      人間、
      すべての植物、
      すべての動物、
      地を這い、空を飛ぶ一切のものにかかわっている。

 そして何よりも我々の子孫が生きるべき未来にもかかわることなのだ。彼らが、化学や核により汚染されて、人間よりも悪魔サタンの姿に近いような化け物さながらの無残な生き物となって未来を生きることがあってはならない。

 そのような結末を導くのは、まさに戦争、革命、教派主義、化学汚染、堕落、権力や利潤に対する欲望、土地や動物や植物の破壊、そして惑星の破壊である。さらに、新たに生まれる病気は長患いを強い、流行性のものとなり、ヘルペスやエイズといった新しい疫病のように治る可能性はない。しかも、エイズの場合は激しい痛みを伴う死が避けられない。

 犯罪的な無責任者や殺人的分子によって破壊されるのは、人間や植物や動物の生存圏に限らない。惑星そのものや最も小さな生命に至るまで、すべてが破壊されるのである。さらには、呼吸する空気までが毒物や放射能で過飽和状態になっていて、すでに地球上の至るところで、それも無責任な人間の罪のせいで、一層残酷で苦悶に満ちた死がさまざまな形で潜伏し、人間、植物、動物、さらに惑星そのものであろうと、あらゆる生命体を攻撃し、破壊しようとしているのである。

人間はすでに地獄を体験しているが、
天国をまだ理解していない。

             ビリー

拷問と死刑

 悪事や犯罪を犯した生命体や人間に対する拷問と死刑は、是か非か。この問題は、健全で責任意識をもって思考する人々にとっては、およそ問題とはならない。なぜなら、健全で責任感ある思考は、このような苦痛と復讐の考えを最初から排除しているからだ。

 どこかで何かの犯罪が起こると、たちまち関係者や、無関係者までが騒ぎ立て、怒りを爆発させる。拷問や死刑を求める叫びや声が大きくなり、悪事や犯罪を犯した輩は全員拷問と死で報い、生からあの世へ送るべきだという。罪人は、「拷問し、虐殺し、八つ裂きにし、縛り首にし、射殺し、溺死させ、斬首し、火あぶりにし、石で打ち殺し、油でゆで、切り刻む」べきだと。このような反応が個々の人間や国民一般に起こるのは、ひとりの人間の悪事や犯罪のゆえに、同胞が憤りや無力感、不安や怒りに襲われる場合である。復讐や悪意に満ちた報いを求める叫び声は、悪事や犯罪を犯した人間よりも善良でありたいと思う人間から発せられる。しかし、拷問や死刑の要求者や擁護者たちは、犯罪を犯した人間よりも本当に善良であろうか。いや、その反対である。死刑を擁護し、要求し、さらに遂行する者たち、彼らは犯罪人よりも善良ではない。それどころか彼らは、悪事や犯罪のために拷問されたり、死刑に処せられたりする者たちよりも悪質で犯罪的である。

 死刑を要求し、擁護し、あるいは遂行する人間、彼らは心の奥底では臆病で、不安に満ち、そのうえ欲深い。彼らの思考は病的なほど無責任で非理性的である。そのために、自己の思考能力を超える出来事について思考しようとすると、彼らはたちまち怒りや不安、憤りや無力感に捕らわれてしまうのである。なぜなら、そういった出来事に責任意識をもって取り組むには、彼らの思考とその力はまだあまりにも原始的だからだ。

 拷問と死刑は断じて罪を償わせるものではなく、原始的で理性も責任もない人間の、最も原始的で犯罪的な復讐と自己満足以外のなにものでもない。彼らの知能指数と人間性は、破廉恥な所業のために拷問を受けて、生から死へと送られることになる犯罪人よりもはるかに劣る。拷問や死刑の擁護者や遂行者が、死刑執行人であろうと、あるいは裁判官や弁護士、主婦、単純労働者や乞食であろうとも、いかなる場合でも、拷問や死刑を擁護し要求しまたは遂行することは、際限のない原始性、愚かさ、強欲、教派主義、邪悪、残虐、無責任を、理性的および悟性的思考の無能力を、そして最も原始的で感情的な未熟を証明するものである。

 拷問や死刑の擁護者および遂行者は、彼ら自身の底無しの原始性のために、自分自身とも環境とも調和して平和に生きることができない人間である。さらに、彼らの利己主義的な思考は、彼ら自身や彼らの知人、あるいは見知らぬ者であっても、その周囲に不正が生じると、思わず失禁するほどの不安と憤り、怒りと無力感に襲われ、復讐心と憎しみに支配されるほどに原始的なのである。彼らの原始性や残虐さは普段は抑制されているが、自分で抑える必要がなく、しかも国の法律がそれを許すような場合には突如として表に現れる。(その意味では)法律と自分自身に対して恐れおびえる気持ちが強いために、ただそれだけの理由で自分自身の中に潜む残虐な欲望を充足せずにいるだけなのだ。ひとたびこの不安感と臆病が取り除かれて障害がなくなれば、彼らははばかることなく残虐な欲望にふけるだろう。彼らのなかには、衝動的犯罪者として行動する病的素因のある殺人者の場合よりも、邪悪で残酷な殺意と残虐さが潜在的に巣食っているのである。

 殺人を犯す衝動的犯罪者は病気であり、衝動的に殺人を犯す者はある行為をするときに自分の意識を制御できなくなっている。利欲や嫉妬などから殺人を犯す者も同じく病気であり、彼らはいずれも人間的な助けを必要としている。その助けは、適切で相応の償いと結び付いていなければならない。あらゆる種類の犯罪者は必ず惑わされており、少なくとも彼はその思考において病気である。そのことについては、とりわけ社会や国家全体、そして個々の人間自身にも罪があり、共同責任がある。罪と共同責任があるというのは、これまでに必要な予防策を講じてこなかったからであり、規範となる教えを与えなかったからであり、犯罪行為を抑制し、まだ芽のうちに摘み取るような法律や監視体制を作らなかったからである。罪と共同責任があるというのはまた、隣人に対してあまりに無関心で、隣人愛の思想が頭をもたげる間もなく、氷のように冷たく凍りつくほどあからさまに無愛想だからである。

 犯罪者は常に、惑わされた者、そそのかされた者、病人、泥棒、そしてまた殺人者あるいは自殺者として行動する。いかなる場合でも、犯罪的行為はひとえに錯誤した、そのため病的な思考過程に基づいているからだ。たとえ彼らが犯罪を事前に入念に計画しようともである。犯罪行為を働く人間の思考は異常で非論理的なので、たとえ犯罪の裏に非常に多くの悪知恵や知性が潜んでいようとも、そこには誤導、誘惑、あるいは病気を認めることができる。しかしながら、病気や誤導や誘惑は、それが犯罪という病気であったとしても癒せるし、取り除くことができる。ある犯罪病が治る可能性の要点は、治癒と償いにある。償いとは、犯罪を犯した人間が義務としなければならないことである。しかしながら、治癒と償いとは、処罰に値する罪を犯した人間が自分の行為の非論理性や犯罪性を自覚して、健全な思考過程に乗れるようになることを意味する。そのためには、当の人間に自分の行為や病的な思考の誤りを意識させ、場合によっては医学的処置を与える。罪を犯した人間は教示と学習によって自分の罪と誤った思考を認識し、真実で法則に適った生命体である人間へと転身しなければならない。このような作業において、罪を犯した人間を適当な期間、社会から隔離しなければならないのは当然である。過ちを犯していない人間に認められたすべての自由が、罪を犯した人間に保証されるとしたら、およそ償いというものは成り立たなくなるであろう。

 あらゆる種類の犯罪者は、そのため必ず惑わされた者、そそのかされた者、あるいは非論理的で非現実的な思考過程に基づいて行動する病人である。したがって、犯罪者は償いに耐え、償いを実行できるために、同胞の助けや国全体の援助を必要とする。つまり、犯罪者とは助けを必要とする人間、助けとして償いの可能性を与えられなければならない人間なのである。ときには誤りはあるが、これはすべての国の法律が求めていることでもある。しかし、償いは必ず、罪のある人間に償いの可能性が与えられる場合にだけ成り立ち、実行できる。これはまた、罪のある人間を社会とその自由から隔離し、本当の真理、したがって正しく健全で法則に適った思考と行動を教えることによって可能である。しかし、罪のある人間を、その行為に対して拷問や死をもって罰した場合、いかなる償いも人間性もない、償いのあらゆる可能性を最初から抹殺した、報復的でサディスティックな処罰を行うことになる。そしてこのような拷問や死刑を求め、決定し、遂行するのは、たいていの場合、犯された犯罪行為の結果や影響にはまったく無関係な人間たちなのである。これらの人間にあっては、拷問や死刑の思案、決定と要求およびその遂行は、血に飢えた残酷な復讐の思想、不安と臆病、利欲に根差している。なぜなら、彼らも同じような犯罪によって被害を被るかも知れないからである。つまり、人間は自分自身の臆病、不安および利欲のために、また自分自身の未熟さや、不完全さや、残虐さ、そしてまたひそかな権力への野心を隠蔽するために、他の人間に対して拷問や死刑を要求し、行使するのである。しかし、まさに拷問や死刑を要求し、擁護し、さらには遂行することによって、拷問や死刑を求めて叫ぶ者たちの、こうしたすべての原始的な特性が初めてあからさまになり、認識できるようになるのである。だが、どうしようもなく愚かな彼らには、このことがわからない。その惑わされた、そそのかされた、あるいは病的な思考が犯罪の決定的な要因となっているにもかかわらず、犯罪者はしばしばかなり多くの知性を持っているのである。しかし一方、拷問や死刑の要求者たちは救いようもないほど愚かで、原始的かつ独断的である。だからこそ彼らは、自分たちが罪のある犯罪者よりも善良だなどと誤って思い込んでいるのである。しかし、彼らに認識と真理の光が立ちのぼることは絶対にない。その原始的な愚かさ、不安、臆病、そして利欲のために、はっきりと復讐と血に飢えて行動し、考え、語り、そうすることによって彼ら自身、その錯誤した、あるいは惑わされた、あるいは病的な思考の結果、犯罪を犯す者たちよりもはるかに罪深い犯罪者となっていることを、彼らはけっして認識しない。

 どのような国家も、秩序を維持する、あるいは秩序を維持すると思い込まれている法律の存在下で生存している。そのなかには、刑罰に値する行為に対して償いを要求する法律もある。それによって、この点でも秩序が維持され、あるいは実現され、罪人をいつの日か健全で正しい思考、行動および生活に導く償いの手続きに組み入れることができる。しかしながら、ある国民や人間が原始的であればあるほど、その法律も、犯罪に対する償いの理解も非論理的、非人間的で欺瞞的である。また、ある国民やあるひとりの人間が教派的、宗派的であればあるほど、その思考、行動および生活は原始的、欺瞞的であり、そして犯された犯罪に対する償いの理解と応用において原始的である、ということも証明できる。

 自己の原始性のために合法的な思考、行動および生活をいまだに理解できない宗派的、教派的人間だけが、人間の犯行や犯罪に対して当を得た償いを要求する代わりに、復讐と血に飢えた拷問の絶対的正当性、さらには生命をも要求し得るのである。

 拷問や死刑が数千年前に残忍にもいけにえの儀式として、その後は教派的、宗派的カルトの復讐的な罰として考案され実施されていたように、それ以来、拷問や死刑はあらゆる宗教や教派、そして国家機関に入り込み、無責任で犯罪的な軍隊、人間性の冒涜者、裁判官、死刑執行人、最も原始的な発展段階にあるその他の無責任な分子によって常に弁護され、要求され、遂行されてきたのである。これらは、おこがましくも自らを人間と呼んでいるが、明らかにこの名称にまだふさわしくない分子である。というのも、あらゆる創造と自然の法則を無視し、厚かましくも他の生命体の生死について裁き、判決を下すなどということが、真の人間にどうしてできようか。このようなことは、原始的な愚か者、そのうえ教派にそまり、まだ理性的に思考することのできない者だけがなし得るのである。それが、犯罪的な軍隊、えせ革命家、テロリスト、階級主義者、君主主義者、無政府主義者であるか、あるいは法王、教派主義者、狂信者であるか、あるいはまた乞食、主婦、裁判官であるか、さらには弁護士、連邦大統領、独裁者であるかはまったく問わない。彼らが創造の法則と掟に従い、法則と掟に忠実な真の人間であるならば、復讐を求めることもなければ、罪人について判定し、有罪判決を下し、刑罰を要求することもないはずだ。罪人についてただ相談し、必要な償い、およびその時間と方法をきわめて人間的に決めるだけのはずだ。しかしながら、原始的な愚か者は、罪人について裁き、復讐的な罰とその実施を決め、思案し、要求するのである。かつて次のように言われたことが、遠い昔から知られているにもかかわらずである。

裁くなかれ、汝らが裁かれないように。
そして
汝らが群衆もて裁けば、同じ群衆によりて汝らも裁かれるであろう。

 裁きに関するこれらいにしえの言葉と同じように、原始的な愚か者の行動と思考も我々に考えさせられるところがある。だが、そうした思考や行動を気にかけるのはほんの一握りの誠実な人間だけだ。国民の大部分は、復讐的な罰を受ける罪人たちよりも善良であると信じている。そしてこのような思考は、不正が正義に優先する国だけでなく、いわゆる正義が不正に優先する国でも支配的なのである。たとえば、法が支配しているいわゆる法治国家でも、国民に促されて、償い的ではなく復讐的な罰を要求し宣伝しているのだ。そうでなければ、スイスやドイツなどの法治国家で、主婦、労働者、エンジニア、弁護士、裁判官、警察官などなど、あらゆる職業の市民が、犯罪者は死をもって罰すべきだと声高に叫んだり、あるいはアメリカなどでは平和時でもやっているが、戦争中に死刑が認められ実施されたりするということが、どうしてあり得ようか。第2次世界大戦中にスイスで処刑された多くの人々に一度でも思いを巡らせるがいい! ーーいわゆる永世中立国、自称平和国家において!

 犯罪が起こると、「犯罪者を片付ければ、長いこと食わせなくてすむ」とか、「そんな豚は拷問にかけて八つ裂きにすべきだ」といった原始的な言葉が、あまりにあっさりと、あまりに頻繁に発せられる。思慮ある人間として、「犯罪者と、復讐的で残忍な刑罰を求める人間とではどちらが善良か」と、自問するのは間違っているだろうか。

 何よりも拷問は、同胞に致命的な苦痛を与える残酷な楽しみであり喜びであり、そして死刑はまさにその名前が示すとおりのもの、すなわち復讐の意図と復讐の形態をもった刑罰である。それは、人間と称される者によって考案され、要求され、遂行される復讐的な罰である。彼らは思考と行動において、自己保存本能からではなく、餌食にすることが簡単なことを知ったために人間を襲うようになった人食い猛獣よりも劣る、血に飢えた肉食獣である。

 拷問や死刑は過酷であるがゆえに、その適用はけっして許されるものでなく、ましてそのような復讐を考えることさえ許しがたい。死刑によって、法律違反者から償いのすべての可能性が奪われる。というのは、死刑を執行した後には、この人間にとってすべてが、まさにすべてがなくなるからである。彼は、原始的な愚か者、復讐に飢えた者、教派主義者によって、また動物的で犯罪的な軍隊、独裁者、テロリスト、無政府主義者によって、そして国家により合法化された殺人者によって殺される。これらの殺人者は、裁判や裁判外での拷問や死刑の判決による公の殺人を大いに楽しみ、自分を強く大きく感じて、「この豚を片付けてせいせいした」と叫ぶのだ。それは、理解力がまだ乏しい、ちんぴらで半人前の大物気取りが、隣人の家の窓に石を投げて、「痛めつけてやったぞ。これでリンゴを1個木からくすねたぐらいで文句を言うまい」と叫ぶようなものだ。

 人間が罪のある同胞に、違法行為に対する償いを求めたとしても、それに対して復讐的で、しかも残忍な刑罰を要求し与えることはけっしてできるものではなく、むしろ自然と創造の法則および掟に従い、償いと償いを成就する可能性を罪人に与えなければならない。しかし、償いとは、真に人間的な法律も言うとおり、罪のある人間が犯行または犯罪を改心することである。しかし、このことはまた、罪のある人間に対して、実際に改心を決心して実行できる可能性を数年間与えてやらなければならないことを意味する。つまり、自分がどのような間違ったこと、犯罪的なことをしたのか、数か月または数年、さらには一生涯にわたって考え、そこから学び、その思考、行動および生活を健全な軌道に乗せ、そして真人間となるようにしなければならないのである。罪人は、孤独な場所に追放され、あるいは小さい独居房に閉じ込められて、20年、25年、あるいは残りの全生涯、自分自身とその思考とだけ向き合い、彼に与えられた償いの可能性によって次のように言うことができる日まで毎日、自分が負った恐るべき重荷に耐えなければならない。「私は自分の行為をよく考え、自分の行為が生命や同胞に対して犯罪的であり、すべての法則と掟に反していたことを知った。私は真理を認識し、かつて自分が犯した行為をひどく後悔している。人々が私のあのときの行為を許してくれるようお願いする」と言うことができるまで。

 処罰は、罪人に復讐的な罰を与え、復讐的な罰を実行するために、人間によって考え出されたものではなく、犯罪者を助け、彼らに生命と人間的秩序の真の法則を教え、健全な思考を行わせ、そうして彼らが人間となるようにと、作り出されたのだ。

 拷問や死刑が、犯罪や、さらには殺人の見せしめになったことはまだ一度もない。これは有史以来、世界中で確証を見いだせる事実である。しかしまた、死刑を廃止した国々では、今日まで犯罪発生率が増加していないこともやはり証明できる、というのも事実である。しかしながらこれは、全世界で進行している人口増加の増加率に従って計算して比較的に見なければならない。たとえば、人口100人で犯罪発生率が3パーセントだとすると、人口が1000人に増えれば犯罪件数は30件である。1万人では300件の犯罪が発生し、10万人では3000件になる。したがって、犯罪の増加は見せかけにすぎない。というのは、明らかにパーセンテージはほぼ変わらず等しいからである。人口が絶えず急速に増加するだけで、より多くの犯罪が発生することになるが、しかしそれに伴って犯罪発生率は上昇しないのである。

 拷問や死刑に見せしめの効果はない。というのは、犯罪者はその惑わされた、そそのかされた、あるいは病的な思考において、司法によって拘禁されたらどのようなことになるかについて、おそらくほとんど考えないからである。実際に、犯罪者はその惑わされた、そそのかされた、あるいは病的な思考で、自分は警察や当局よりも賢く、どのみち絶対に捕まらない、と予想する。だが、犯罪者がその惑わされた、そそのかされた、あるいは病的な思考において絶対に捕まらないと確信するのであれば、拷問や死刑を恐れて犯罪を思いとどまるということがどうしてあり得ようか。しかし、犯罪者が自分の不法行為に対して同胞の復讐、すなわち拷問や死刑を受けるかもしれないと一度でも思い至ったとき、彼の考え方はこうだ(そしてこれも証明できる)。「……そのときは俺にとってまさにすべてが終わり、俺は安らぎを得る。奴らは平然と俺を拷問して殺し、死骸を土に埋めるだろう。俺にとって大切なのは、俺はまだあいつやこいつを地獄に送ってやれることだ。ばか者どもが俺を消してくれれば、一生を監獄で送らないですむ」。実際、原始的な愚か者は、このような犯罪者が殺人や暴行に対する償いを行わないですむように加勢し、彼らに天を恐れぬ所業のフリーパスを手に入れさせ、責任を負わせず、償いを逃れるよう手助けしているのだ。別の場合にも、償いの可能性が得られるはずの者たちから、その可能性を奪っているようにである。

 隣人が誰であり、何であり、誰に対して罪を犯し、あるいは犯さなかったかにかかわらず、隣人を愛し、励まし、助けるのは人間の義務である。いかなる人間も隣人を裁き、隣人について判決を下す権利はない。正しいのは、罪のある隣人の相談にのってやり、隣人のために人間的に考えられる限りの援助の可能性を究め、これを与えることだけである。

 拷問や死刑のいかなる擁護者または遂行者/執行者も、ひそかな、あるいは公然たる事実上の人殺しであり、殺人の罪を犯す病的な、誤った、あるいは惑わされた犯罪者よりも堕落している。拷問や死刑判決のいかなる擁護や執行も、その背後に国の裁判による判決があるかないかにかかわらず、ひそかな、あるいは公然たる事実上の殺人である。いかなる種類の戦争行為、革命、デモ、テロ活動、無政府主義的行動における拷問や殺戮の擁護および執行も、そしてまた個人的な領域で危機に瀕した生命への援助の拒絶も事実上の殺人である。そしていうまでもなく、あらゆる種類の宗派的、教派的理由から犯される殺戮も、事実上の殺人に含まれる。

 殺人を許すのは、絶対的正当防衛を認める法律だけであるが、それもこのような殺害が純粋な防御行為として行われる場合に限られる。純粋な防御における純粋な正当防衛だけが、人間を殺しても罪が問われないのである。

 人間が戦争行為や革命行為などにおいて隣人を殺したり拷問にかけることも、あるいはそのような拷問や殺害を単に擁護することも、あるいは種々の宗教で行われているように武器を神聖化することも、まぎれもない事実上の殺人である。あらゆる種類の戦争行為や革命行為は、けっして正当防衛や防御ではない。というのは、人間が軍隊や暴徒、教派主義者や革命家のもとに集まる場合、彼らはすでに完全に事実上の殺人の意図をもって集まり、味方なり敵方なりが攻撃をしかければ隣人を殺そうと思っているからだ。軍隊や革命家、テロリスト、無政府主義者や教派主義者などは、敵が現れた場合にこれを捕虜にしたり、あるいはなんらかの人間的、非殺戮的な方法で排除しようとは明らかに考えず、殺戮の考えを養い育てるのである。軍隊や革命家、テロリストや無政府主義者などは、敵を故意に殺すことを目指して活動し、生命に危険のない人間的な仕方で敵を排除することを目指すものではけっしてない。隣人を殺傷する能力のある武器もこの理由で作られ使用される。このようにして、殺そう、殺すべきだという意図、したがってまた事実上の殺人の意図があることはきわめて明確となる。

 しかし、特に今日は、技術や化学、その他の科学が進歩しているので、いわゆる防衛軍が、死と破壊だけをもたらす殺人的な殺傷兵器をもはや必要とせず、純粋な防衛兵器を調達して、これだけを使用していくのは可能であろう。そうすることによって、人間の生命は脅かされず、また攻撃があれば純粋な防衛行為のみ遂行することになろう。しかし、これが行われないために、敵の拷問と殺戮が語られ、計画され、実行され、それによって潜在的な事実上の殺人が行われているのである。このようなことがその良心に反しないような者は、人間の名にも値しないであろう。

 拷問や殺戮の意志を持った人間は、どのような機会でもその堕落ぶりを思う存分発揮するのは明白だが、彼らにとって有罪判決や戦争および革命行為にまさる好機があろうか! 戦争や革命のときは、とりわけ拷問と死刑を擁護する連中がその堕落を抑制しようとはしないのは証明できる事実である。彼らが本能を自由に発揮し、拷問や殺人を合法的に遂行するチャンスを得たら、その堕落はもはや際限がなくなる。こういった分子の残酷な堕落ぶりや大量殺人は、世界中でいやというほど知られているので、それについてこれ以上語る必要はあるまい。

 しかし、すでに触れた、いわゆる犯罪発生率上昇についてもう一度簡単に述べなければならない。たとえ犯罪発生率は上昇しておらず、人口増加に従って件数が増えているだけだと言われ、それが証明できるとしても、ある特定の時期、すなわち国家の危機が差し迫り、そのことが国家を圧迫し、市民の苦難が始まろうというときには犯罪発生率が上昇することに注意しなければならない。これらの時期には、犯罪的な自衛手段が講じられるが、それはきまってやはり拷問と死刑の擁護者によってである。他人の破廉恥行為を死をもって罰することを主張し、あるいはこれを遂行する者、非常時には自分自身の利益だけを考え、泥棒から殺人、盗み食いから略奪、中傷から死体剥ぎといった犯罪行為を犯す者たちである。これは、否定できない確証された事実であり、いまいましいけれども考慮しなければならない事実なのである。

ビリー

『拷問と死刑・人口過剰』(1996年3月発行)からの抜粋

FIGU公式Webサイト  活動紹介  ページのトップへ