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霊の教え入門(Einführung in die Geisteslehre)

セムヤーゼ(Semjase)との第10回コンタクトより 1975年3月26日(水)15:20

セムヤーゼ(Semjase)

  1. 地球人の意識の発展と霊の発展にとって非常に重要な事柄についてお話しすべき時が来たようです。
  2. ですから、これから話すことに直接関連しない質問にはさしあたり答えるつもりはありませんので、理解してください。
  3. 人間は一つの霊の担い手です。霊は死ぬことがなく、人間が深い眠りの中にあっても常に目覚めていて、すべての思考と感情を記録します。人間が霊に耳を傾けることを身に付ければ、自分の想念が正しいかどうか霊が教えてくれます。
  4. 人間の内部にあるこの霊は、創造の王国の担い手です。そしてそれはすべての人間に備わっているのです。
  5. 人間が天国とか自らの内なる天国などと言い、創造や真実、知識や英知、霊や意識、そして実在という言葉を語るだけでは満足しないのは不可解なことです。
  6. 人間が切望するもの、それは永遠の生命、不滅の平和、決して消滅することなく永遠に持続する霊的意識的な豊かさの、絶えることのない喜びの中にあります。
  7. 天も地も滅び去ります。しかし、真実、知識、英知、そして霊は決して変わることも消滅することもありません。
  8. 霊と意識は、完全、調和、平和、認識と洞察、知識、英知、真実、美、愛、そして真の「存在」、永遠に続くこれらすべてのものの訪れを待ち受けているのです。
  9. これらすべてが一体となって、霊の王国を作り上げるのです。これらすべては創造的なるものの内に現存しているのです。
  10. それらは独創性の中の独創性として、旋律の中の旋律として、能力の中の能力として、創造の原理の中の至高の原理として、あらゆる奇跡に勝る奇跡として実在するのです。
  11. 創造が意識して世界を創り出すように、人間は夢の中で奇跡の世界を創り出すことができます。
  12. この能力は人間の意識から生じるものです。すべての奇跡が人間の中にあるように、意識もまた人間の中に実在しているのです。
  13. 人間自体が天国、すなわち創造的なるものの王国なのです。
  14. それゆえはるか昔の地球の哲学者は言いました。人間とは大宇宙の中の小宇宙であると。なぜなら宇宙の中に含まれているものはすべて、人間の中にもあるからです。
  15. 人間の内部の次元は無限です。
  16. 創造の似姿である人間の中の霊は無次元的な実在です。それはすべての次元を包含すると同時に、あらゆる次元を超越しています。
  17. 霊とはすべての奇跡の中の奇跡、すべての力の源です。
  18. 奇跡とは霊の力を余すところなく利用することです。
  19. ところが人間は奇跡を、いかなる論理でも解明できない現象だと片付けてしまうのです。
  20. 人間が幸福を感じる時、その幸福は人間の内部から湧き起こってくるものです。幸福とは自分で作り上げた状態であって、何らかの場所ではないからです。
  21. 喜びもまた人間の内部から湧き起こってきます。霊的そして意識的な平衡から生まれてくるのです。
  22. つまり、すべてが自己の内部から生じるのです。
  23. 幸福の原因と思われる物事や人は外的なきっかけにすぎず、幸福を目指して意識的に努力してきた人間自身の内部の幸福が、そうしたきっかけによって発現するのです。
  24. 幸福とは自己の深奥の、すなわち霊の本質に属するものであり、創造という実在と分離することのできない特徴です。
  25. 無限の幸福も無限の力も、この実在に含まれているのです。
  26. 人間は外見的には年を取りますが、それは一時的な現象にすぎません。
  27. 50年前は年寄りでなかったし、50年後も彼の肉体は死んでいるでしょうからもはや年寄りではありません。老化して虚弱になるのは肉体だけなのです。
  28. 霊は永遠に若く、老化現象が起こることはありません。
  29. 老年期というものは、青年期や幼年期、心配、苦悩やいろいろな問題のようなもの、この世界のすべての外的な事情や経験が過ぎていくように、過ぎ去っていくものなのです。
  30. 永続するものは霊という実在、真実、知識、英知、そして現実です。
  31. これらを認識し築き上げることが必要です。それらだけが人間を自由にするからです。
  32. 霊の実在を認識すれば、人間にとって老いは全く無害となります。
  33. どんな心配や苦悩や問題も、生命や周囲や環境や世界の変化と移り変わりも、もはや人間を悲しみに陥れることはなくなります。
  34. 英知とは、一つの根源的で強大な力です。
  35. 英知は光です。
  36. そして光の射すところであればどこであろうと、暗黒も無知も消え去ります。
  37. 無知は暗黒そのものですが、英知の光がこれを打ち倒します。
  38. 英知は、霊と意識の実在の特徴であり、幸福、真実、知識、平衡、美、調和、そして平和という特性を内に孕んでいます。
  39. 英知は光です。
  40. 英知はまた、霊と物質的意識の実在を認識し、創造の法則に従ってそれらを活用する人間の特徴でもあります。
  41. 英知とは、意識を発展させることであり、意識の力と霊の力を利用することなのです。
  42. 英知と霊および意識と真理はそれぞれに二物ですが、日光と太陽が二物だというのと同様に、結果として一体のものなのです。
  43. 日光は太陽の熱があるからこそ生まれ、太陽の熱はそれを作り出すプロセスがあるからこそ生まれるのです。
  44. そしてまた宇宙においても万物を創造する一つの実在があります。その実在は自らの力の強さによって力を生み出し、それらの力は真実、知識、英知として定められた創造の法則に従い、規則正しく惑わずに然るべき統一的な原則に沿って終わりのない永劫の時を刻み、またこれに生命を与え続けるのです。
  45. この力に満ちた実在こそ創造なのです。
  46. したがって、宇宙をあまねく支配するただ一つの実在があり、ただ一つの創造、ただ一つの真実、ただ一つの知識と英知があるのです。それらは永遠の時にわたって一定不変です。
  47. 永遠の真実は、変動することも変化することもありません。真実の法則は修正されたり、新しい時代に適合させたりする必要が決してないのです。
  48. 霊の力は意識の力と同じように生気にあふれて躍動的であり、しかもその程度は、霊の力が英知を具現するほど高まります。
  49. 宗教や教派とそれらの誤った教えが創造的なるものの道具とされ、それによって英知が非現実的なものとなるならば、それは人間の弱さの表れです。
  50. この時、人間は力と自由と喜びと光をありもしない場所に求めるようになるのです。
  51. 英知は、創造の一部が霊として人間の中に宿っていることをはっきりと示す標識です。
  52. だからこそ人間よ、自分の意識によってわかる限り英知を高めなさい。そうすれば人間は創造を認識することでしょう。
  53. いっそう真実を追求しなさい。そうすれば英知の力を知ることでしょう。
  54. 真実を認識すれば、人間はあらゆる制約から解放されます。
  55. 真実は、無限の知識と英知をもたらします。
  56. 英知は、創造の法則を認識するための強力な手段です。
  57. 愛で満たされた人間は、英知もまた豊かです。英知が豊かな人間は、愛にもあふれているのです。
  58. でも地球人は愛を知らないので、自分を欺いています。
  59. 本当の愛を知らず理解することもないままに、占有欲やその他の感情を愛と誤認しているのです。
  60. 人間はたとえ創造という言葉を使わなくても、真実と知識と英知を認識して身につけた時に初めて本当の人間となるのです。なぜなら、英知は至上の愛でもあるからです。
  61. こうして人間は、悟りと認識は知識であり英知と愛でもあること、そして愛が支配するところは英知も支配することを常に気付くのです。
  62. また愛と英知は互いに切り離すことができません。創造とその法則は、愛と英知でもあるからです。
  63. 英知と知識があるところには愛と認識があり、そして愛と認識があるところには創造があります。
  64. 愛と英知の高まりが、人間に創造を認識することを教えます。
  65. でもその前に人間が真実を学べば、自由と平和、すなわち不滅の平和と無限の力を獲得するでしょう。
  66. 英知と愛は、創造という存在と本質から生き生きと広がる両翼です。
  67. 英知と愛をもって人間は万物の上に立つのです。
  68. 英知と愛によって、人間は創造と自然の法則の遂行にますます専心するようになります。なぜならば、霊と創造は一つのものだからです。
  69. 地球人は、愛を知らないのに愛について語ります。
  70. 自分の感情が愛であると思い込み、それによって自分を欺くのです。
  71. 愛は言葉では表現できません。愛とは幸福と同じように状態であって、場所ではないからです。
  72. 真の愛は不滅であり、これを別のものに変えることはできません。
  73. 意識の力と霊の力の小道が、真実、知識、英知と愛の認識へと導くのです。
  74. したがって霊の教えの意義と使命は、真実、知識、英知と愛を広めることをその中に含んでいるのです。
  75. 霊の教えが乱用されたり誤って解釈されたりすると、それはもはや救いではなく、悪質なカルトに過ぎなくなります。それらのカルトは教派や宗教の誤った教義の例と同様、邪説によって物質的意識を隷属され、無知を作り出すのです。
  76. しかし霊の教えが意識と霊知識を拡大する役目を果たすならば、それは創造の秩序を保つ強力な道具となります。
  77. 霊の教えの主眼は、認識、真実、知識、英知、そして愛を広めることにあります。死を克服し、光を放ち、調和ある英知と愛を実現し、あらゆる理解を超えた平和を体現する永遠と不死と不滅を広めることにあります。
  78. 人間は誰でも平和とはどういうものか、自分の経験に照らして知っていると思っています。
  79. しかし、無限の実在、霊、すなわち不死なる創造の英知に基づく平和を理解するのは、人間の理解力ではとうてい無理なことです。
  80. それは人間が、宗教の誤った教えや人間的物質的な事柄に囚われており、それらが人間が内的経験に基づいて理解するのを妨げているからです。
  81. 真の認識と英知に至るための真の鍵となるのは経験です。
  82. 霊の王国には、数え切れない奇跡が含まれています。
  83. 人間が関わっている可視の宇宙は、この奇跡に満ちた限りない創造という霊的知性の中にあって単なる小さな点にすぎません。
  84. このような宇宙はこの限りない創造という霊的知性の中に、何十億と数限りなく含まれているのです。
  85. 人間が肉眼で捕らえることができるものは、無限の中のただ一点にすぎません。
  86. 人間が肉眼で見ることのできないものは計り知れず、不可解で、考えも及ばないものであり、霊的でない人間の知性と理解力では混乱を招くだけで想像もつきません。
  87. 人間が見ている全宇宙は、何十億という数かぎりない空間の内のただ一つにすぎません。なぜなら限りなく強大ですべてを作り出すこの創造という実在の霊的知性の中には、宇宙の中の宇宙、宇宙の向こうの宇宙、宇宙の下の宇宙、宇宙の上の宇宙、宇宙の外の宇宙が存在しているからです。
  88. そして人間はこの巨大な霊、そして実在、創造および霊的知性の根源的な力と結び付いています。なぜならこの霊的知性である創造の一部が人間の中に霊として宿り、人間に生気を与えているからです。
  89. その力、その喜び、その平和、その自由、その英知、その知識、その能力は、意識的に無知な者、非論理的な者、批判者、知ったかぶり、宗教に囚われている者、退化した者、その他すべての誤った道に導かれた者にとっては、想像もつかないものです。
  90. この真実を認識し、そこから知識と英知と愛を作り出す人間だけが、祝福された人間となります。
  91. そのような人は科学や哲学の最後の問題にも、また尋ねる人の質問にも答えることができるのです。
  92. そうした祝福された人となるためには、真実を求めて発見し、そこから知識と英知と愛を作り出すことが必要です。なぜなら人間は真実と知識と英知と愛の中でのみ、霊的および意識的に成長できるからです。それによって人間はすべての人間的な弱さから解放されるでしょう。
  93. 人間がいつまでも無限の創造と霊の現実を絶えず考え続けるならば、初めて悟りを得て完全に解放されます。
  94. 霊的知性は法則的な霊の原理により啓発されて、創造の本質、完璧性、そして創造的なるものそれ自体の力に向かいます。
  95. それは人間の知性とは異なります。人間の物質的意識は、一般に物質界の個々の事物にのみ取り組むからです。
  96. その結果、人間はあらゆる方面で制約を受け阻害されます。その上、あらゆる種類の不幸、弱さ、隷属に囚われ、抑圧され、苦しめられ、責めさいなまれるのです。
  97. したがって、自分を事細かに見つめ分析することが、真実を発見し、意識的で霊的な進化の道を辿るために最も重要な方法の一つです。
  98. そのためには、絶えず自分の想念を考察し、それがどのような種類のものであるかを見極めることが必要です。
  99. 最終的に自分を常に導き、案内し、決定するものが、常に創造的哲学的原則、現実、そして創造と自然の法則であるように、人間は留意しなければなりません。
  100. 人間は、自分が創造的なるものに属していること、自分という本来の霊の息吹、自分という本来の霊的「存在」とともにあることを常に意識する感情を、常に身内に満たしていなければなりません。
  101. 人間は、自分という本来の霊的「存在」が創造的なるものと一体であり不可分であることをはっきりと意識し、この自覚によって外的な物質界を克服することが必要です。
  102. この創造的哲学的真実とその認識が、何よりもまず常に人間の思考と感情と行動を支配すべきです。
  103. 結局は霊と一体となっている者だけが、ついには認識し、また善をなすこともできるのです。というのは、そのような人間は自分のうちに創造の可能性を秘めているからです。
  104. 限りない宇宙のどのような否定的なものであっても、そのような人間を傷つけたり、隷属させたりできません。
  105. このような創造的哲学的意識のうえに、実践的で躍動的な創造的なるもの、つまり、あらゆる事物の中に潜む唯一の現実の知覚から成り立っている神秘の意識が加わります。
  106. だから人間よ、実践的な哲学者かつ神秘論者でありなさい。そして変転し消えていく現象の中に現実を知覚しなさい。
  107. そもそも人間とは何でしょうか。
  108. 姿と名前、それだけです。
  109. 人間から名前と姿を取り上げたら、何が残るでしょうか。
  110. 残るのは根幹をなす本質、すなわち実在。つまり霊と総意識体です。
  111. これに気がつかない人間は、どんなに微弱な風にさえあちらこちらと吹き飛ばされて、拠り所もなく絶望のうちにさ迷いながら、それでもどこかにすがれるものを見つけようともがくのです。でも根本的な真実を探し見つけなければ、すがれるものが与えられることはないでしょう。
  112. 地球やその他の世界の何十億という人間は空の星を見上げても、そこから何らかの成果や認識を得ることはありません。
  113. しかし天文学に通じた者なら、空を見上げて新しい世界を発見し、それについて書物を記したりもします。
  114. しかし彼らに見えるものや認識できるものが、他の人間にはたとえ空を見上げることができたとしても、見ることも認識することもできないのです。
  115. 目は見えていても盲目同然なのです。
  116. これと同じことが意識的に未熟な普通の人間や、意識的な自覚のない人間に当てはまります。
  117. 霊的な創造の法則に従って真実に生きる人間は、周囲のあらゆる生命体、あらゆる事物、あらゆる思考と行動、あらゆる人間、あらゆる自然作用、そして考えられる限りのすべての状況と現象の中に、創造的なものを見出し、それを認識できます。
  118. しかし意識的に未熟で、宗教その他の非現実的な教えに毒されている普通の人間は見ることも聞くこともできず、真実のかけらさえも認識できないのです。
  119. このような人間の生活は意識的ではなく、そのためにいっそう人間的、物質的な方向に押しやられています。
  120. そのため、目も見えず耳も聞こえず、無知なのです。
  121. しかし創造の法則に従う人間は、幸福に満ちた、恐怖を全く知らない存在となります。
  122. そのような人間の意志は決して屈することなくがなく、その献身は計り知れないほど無限であり、その英知と愛は永続的で完全で、宗教その他の誤った教えに惑わされた人間のように気まぐれに変転することも懐疑にさいなまれることもないのです。
  123. そのような人間の感覚は果てしない大海に等しく、決して平静を失うことがないのです。
  124. 不安に震えることもありません。
  125. だからもはやどんな堕落した否定的な力も届かなくなるほどに、彼の霊的感覚を伸ばします。
  126. その感覚は、負の方向に逸脱した思考が宿ることも許さなければ、あらゆる正の方向に逸脱した思考や行動も退けるのです。
  127. 本当に価値があり、意識と霊の発展に寄与するのは調和のとれた感覚だけです。それは創造的なもの、つまり、創造的な働き、創造的な英知、創造の知識と愛と喜びに根差しています。創造的なものは周囲をぐるりと取り囲む物質的壁面や、人間的生活環境よりも現実的なのです。
  128. だから人間よ、意識的に常に大きく、建設的でありなさい。
  129. 霊、すなわちあらゆる無限の創造的構造の源となるものは、人間の内奥の本質そのものなのです。
  130. 人間の外的な本質は、あらゆる面で制限されています。なぜなら、それは本質そのものではなく、その外皮、つまり物質的な肉体または境界に過ぎないからです。それは惑いの元であり、苦難と苦痛の源をなし、認識や意志、献身、自由、愛、そして幸福の点で制限されているのです。
  131. 隣人を単に外面的、物質的に見るならば、この特定の人間の形と姿、すなわち物質的なものしか見えません。
  132. しかし、同じ人間を意識的で霊的な認識の目で見るならば、自分と同じように他のすべての人の中にも、たとえ本人が自覚していなくても、全てを表明するこの意識が宿っていることがわかります。そうすると周囲の人間を見る見方が根本的に違ってきます。
  133. そうすれば彼はもはや単に一人の男や女や少女や子供を見るのではなく、創造的な霊の担い手として隣人を見るようになります。その霊は自分と自分の実在を自覚し、機会さえ与えられれば誰を通してでも自分を示したい、と望んでいます。
  134. 真実を知るものはこのような知識と認識から隣人を見ます。隣人の中に創造的なるものを見るからなのです。
  135. 彼は少なくとも今、真実を認識する前よりも多くのことを知っています。
  136. これにより、無知とは永遠に変えることのできないものではないことが実証されます。
  137. 真実を受け入れる意志さえあれば、人間はあらゆる無知から解放されます。
  138. 人間はあらゆるものから自分を解放でき、また、あらゆるものを人間から奪うことができますが、奪えないのは創造的な意識、霊、すなわち純粋に霊的、創造的な領域である内奥の実在だけです。
  139. 全財産を奪われ、自分の家から放り出されても、自分自身の内奥にある霊の王国から追い出されることは決してありません。
  140. だから人間よ、常にこの創造的なるものを意識しなさい。それがなければ人間は呼吸もできなければ意識的に考えることもできないでしょう。認識することも、見たり聞いたり経験したりすることもできないでしょう。
  141. だからこそ、いつの世でも偉大な賢者は言うのです。
  142. 「人間にとって創造的な霊は、自分の息より身近だ」と。
  143. この至上の意識から人間は決して逃れることができません。遅かれ早かれ、人間は必ずこの創造の現実に帰するからです。何故ならばそれは生命の中の生命であり、霊の中の霊であり、意識の中の意識、光の中の光であり、生命全体の中心となる思考力、すなわち人間のあらゆる思考をはるかに超える実在だからです。これと比べたら人間の物質的知性によるあらゆる思考の力など、すべて完全に無意味となるでしょう。
  144. 霊は、肉眼から光が失われても生きていくことができます。耳がなくても、腕や脚がなくても、それどころか外的な物質的意識の皮相な理解力がなくても生きていけます。
  145. 霊に生き続ける能力を与えるもの、すなわち霊自身の創造的な力がいつも存在するからです。
  146. この固有の意識は、すべてを観察し記録する人間内部の霊的な意識であり、自分の思考と感情を観察し、すべての思考を密かに援助し、彼が知的か無知かを人間に告げます。すなわち、それは創造的なるもの、つまり霊的な意識です。
  147. 霊が全知全能遍在であり、さらに限りない幸福、限りない美、限りない価値、すなわちおよそすべての事物の価値であるということを繰り返し熟慮するならば、創造という言葉は人間にとって絶対的な意味を持つようになり、彼の中に進化に基づく変化をもたらします。
  148. こうして彼の心の中に霊と創造という言葉が度々刻み込まれると、彼の中に物質的意識にとって重大な意味を持つ心理的変化が起きます。
  149. つまり彼の感情とすべての感覚が変わるのです。
  150. それによって意識的知性が澄み渡るほどに、彼の人格はその力を増し、その人生も祝福されたものとなるのです。
  151. 意識に満ちた賢者ともなると、遠い未来、場合によっては何十億年も後の出来事を予見し、生物や人類の一切の過去を目の当たりにすることができます。
  152. 賢者にはこのように絶大な知識が与えられているのです。
  153. でも、どうしてそんなことが可能なのでしょうか。
  154. このような人間には自己の内部、すなわち霊の中に、そのために必要な前提条件が備わっているのです。
  155. まぶたを閉じていても光を知覚できるように、すべての人間の中に創造の存在すなわち霊の王国がありますが、それが見えるのは内的な目によって自分の内部を見る能力を備えている者だけです。
  156. この王国はすべての必要な前提条件を備えている者にだけ、有益であり得るのです。
  157. すべての人間は自分の中に霊の王国を宿していますが、それは活用されない物質意識によって覆い隠され、あらゆる種類の無知や錯誤、不完全や邪悪、過失や制約によって、抑えられているのです。真実を認識し受け入れることによって、これらの害悪を正反対のものへと転じなければなりません。
  158. これらすべての弊害は、負の方向に堕落したすべてのものに対抗して中立的な平衡へと導く能力を意識的に発展させることによって取り除き、また解明されなければなりません。
  159. 意識を展開させて、真実を意識的に探索し、真実に関する知識を積み上げることによって霊的経験の過程が加速されます。そしてこのような展開は、創造は万物の中に遍在するという認識に基づき、すべてを包括して宇宙全体に広がる真の英知と愛へと導かれるのです。
  160. 人間は創造、真実、英知と愛、そして霊の王国におけるすべてのものと一体です。
  161. 人間は空間と時間と肉体によってそうした真実と英知から隔てられていますが、それは内的経験によって乗り越えられます。
  162. 英知と愛は一体となり、知識と真実は一体となり、意識と霊の英知と愛は経験を通じて統一されて、創造そのもの、そして宇宙全体の喜びと力と完全性へと導かれます。
  163. 人間は創造的なるものを知らないため、誤った教え、すなわち意識を隷属させる教派や宗教に惑わされているので、非常に多くの過ちを犯し、間違った場所に真の宝を探そうとして、自然と創造のあらゆる秩序や法則の全ての規則を破るのです。
  164. そのような人間は人間社会の法律をいかに厳密に守ろうとも、宇宙における創造的なるもののあらゆる法則と規則および秩序を破り続け、人間的で物質的な苦しみや不安、問題、恐怖、誤った教え、誤った指導、弱さ、不幸、霊的および意識的な無知、意識的な隷属および制約にとらわれるのです。
  165. 現実から遊離した教派や宗教、人間的な無知のために、まさに最も価値あるものを把握できないのです。
  166. このような無知と誤った道に導く宗教や教派その他の誤った教えが、全ての価値あるものの源泉、生命の中の生命、あらゆる知性の光、すなわち霊と創造を、人間の目から覆い隠しているのです。
  167. だから人間よ、日常生活とその経験の全領域を創造的なものと考えなさい。
  168. いつでも、どこでも、あらゆる事物の中に自分自身を見出しなさい。
  169. 自分自身が万物となって、万物の中に創造的なものを呼び覚まし、それを認識し経験しなさい。
  170. なぜなら創造は万物の中にあり、万物は創造の霊によって生かされているからです。そのため万物は万物において一つなのです。
  171. ここで問われるのはもし人間が霊の道を知らなければ、どうやって自分自身を万物と同一視するべきかということです。
  172. ただたいていの場合人間は、その肉体を自分自身と同一視しています。
  173. しかし人間が真実と取り組もうと心掛け、内面的に創造の「存在」と霊的な現実に合わせればどうなるでしょう。
  174. 全世界が自ずと本当の霊的な現実と真実へと溶け入るのです。
  175. 創造的なるもの、霊的なものの唯一の原理があまねく支配するのです。
  176. では、人間はどうしたら自分自身を万物と同一視できるのでしょうか。
  177. まず、自分が実際にどのようなものであるか見つめることが必要です。
  178. たいていの場合人間は、その肉体を自分と同一視します。
  179. 人間は自分の肉体を宝物のように大切に取り扱い、養い、献身的に世話をします。
  180. 誇らしげに安物のがらくたや、くだらない妄想で自分を飾り立てますが、一方で、自分の意識は痩せ衰えさせているのです。
  181. ほんの少し痛いだけで、腹を立て不機嫌に他人を当たり散らし、それどころか嘆き、泣き始め、自分を哀れみ、あるいは自ら命を奪うのです。
  182. 自分の肉体をわけもわからず偶像視し、虚栄や不安、懸念やプライド、そして様々な問題を纏わせます。
  183. 何もかもが肉体中心なのです。
  184. しばしば物質的な財産を自分の肉体と同一視することさえあり、周囲の人間がうっかりそれに触れると、腹を立てたりします。
  185. それに比べて、意識と霊の真実を認識する人間はどうするでしょうか。
  186. このような人間は、世界および宇宙のあらゆる事物や生物と自分自身とを同一視するでしょう。
  187. 創造と霊の英知に満ち、知識、真実、愛と認識に満ちた人間は、過去において万物は真実から生まれ、現在も未来も生まれ続けることを知っています。
  188. それゆえ、そのような人間は自分をありとあらゆるものと同一視するのです。
  189. 彼はその意識的な存在の深奥において常に万物と一体となるでしょう。
  190. 彼は自己の深奥において霊的な意識および宇宙の万物と自分を同一視します。その一方、物質的に思考する他の人間は、自分の肉体、金銭や財産と、誤った言葉や教えと、自分の声の響きと自分を同一視するのです。
  191. しかし、人間が自分を宇宙の万物と同一視すると、憎しみや欲望を自らのうちに宿すことができなくなります。自己中心的な区別をしなくなるからです。
  192. 彼は万物の本質と一体となったからです。
  193. 他の人間なら何ものかを自分だけの所有物にするでしょうが、霊的に思考する人間はそのものをその内にある真実と同一視します。つまり、すべてを内面的に所有するのです。
  194. 自分と真実を同一視することによって、彼から一切の恐怖が消え去ります。
  195. それどころか、彼が一体となっているこの創造と霊の真実は、彼に向かって振り上げた敵の手を逸せて、その当人を打つことさえできるのです。
  196. 霊的に思考する人間は保護され庇護されており、自然全体も彼に対して好意的です。そして敵でさえ最後には彼に仕えることになるのです。
  197. 敵からの攻撃によって、霊的に思考する人間の中の意識的な理性の力はさらに大きな力へと発展し、邪悪で卑劣で堕落したすべての者を制圧するのです。
  198. 結局敵の行為は、意識的創造的に思考する人間の成長と真実の認識に役立つだけなのです。
  199. 敵は真に思考する人々に災いや、不幸や、良くないことを望みます。批判、知ったかぶり、虚偽、中傷、異議、誤った主張、誤った教え、嘲笑、非難によってそうした人々を絶滅できると思っているのです。しかし、彼らは自分を傷つけるだけです。なぜなら、彼らの行為は自分たちの愚かさと無知の証明であり、そして、創造的に思考する人間はそこからさらに多くのことを学び、その霊と意識はいっそう偉大で力強くなるでしょう。
  200. このような真実が、単なる暗示だとでも言うのでしょうか。
  201. そんなことを主張するのは狂気の沙汰でしょう。というのもそれは完全な誤りだからです。
  202. それは絶対的な真実なのです。
  203. 誤った考えをする者や、誤った道に導かれた者や、宗教に依存する者の場合、その生活はおおむね悪質な暗示、誤った思い込み、謬説や妄想に満ちています。
  204. このような害悪を除去する唯一の可能性、唯一の方法は、これらすべての人間的妄想を一切無効にする真実を根本から認識し、それらに従い、そして創造と霊と自然の至高へ物質的意識の力を発揮させることです。
  205. 人間が次のことを確認すれば、すべての非現実的な暗示や人間的な空想は正されます。
  206. 「私は創造の一部であり、創造の一部すなわち霊が私に生命を与えている」と。
  207. 創造と霊の力、真実と現実の他は、すべて妄想と幻想であると知ることによって、生命を発展させようとする人間の熱意が減じることは決してなく、むしろそれは予期しないほどに高まるでしょう。
  208. 真実とみなすことができるのは、現在も真実であり将来も真実であるものだけです。それは永遠に信頼でき、いかなる場合でも決して修正を必要としません。
  209. 真実は、別の時代や新しい時代に適合させる必要がありません。真実はあらゆる時代を通じて不変だからです。
  210. 真実は永遠に同一であり、たとえ言い方は異なっても常に同じ響きを持っています。
  211. 真実とは、いつの世にもいかなる場所でもその上に構造物を構築できる岩盤です。
  212. 真実は生命以前に存在し、生命以後にも存在します。
  213. 短い期間しか存続しないものは危険であり、ひどい欺瞞であり、誤った教えです。
  214. 創造と真実は今日も明日も常に同一であり、常に変わることなく、永遠に同じ価値を持つものです。
  215. その名も形も変わりません。なぜなら、創造と真実は名も形も持たないからです。
  216. だから人間よ、創造的なるものにしがみつきなさい。創造だけが真実なのですから。
  217. 真実は創造そのものと同様に不滅です。真実は永遠であり、相対的に完全です。それは人間がすべてのエネルギーを使い、意志のすべてをかけるだけの価値を持つものです。というのも真実は決して人間を欺くことがないからです。
  218. だから人間よ、真実にしがみつき、何事においても変わらぬ冷静さと喜び、知識と愛、そして強さと英知を持って泰然としていなさい。
  219. 創造的なるものだけが無限の英知と真実であり、そこには一点の誤りもあり得ません。
  220. だから人間よ、創造の英知から力を得て、自らの霊と意識の光を探しなさい。
  221. 真の人間は空間内で自分の手を動かさなくても、もう何十億回も創造的なるものに触れることになるとよくわかっています。なぜなら創造的なるものはいかなる時でも、どこにでも遍在しているからです。
  222. 真に現実的な人間は、筆舌に尽くしがたい無限の力に満ちた創造的なるものがあまねく存在し、どこに行こうとも自分を取り巻いていると言う真実を知る時、喜びにあふれます。
  223. 創造的なものは果てしない平和に満ち、無限の認識に満ち、そして相対的に最も完全なものです。
  224. それは、自己の内と外にあまねく存在する至高の霊的意識が繰り広げるあらゆる奇跡の泉です。
  225. 真の人間の喜びは、霊的生命そのものと同じく無限です。
  226. 霊的にも意識的にも急速な進化を遂げるために、創造的に思考する人間はあらゆるものを創造的とみなします。
  227. 彼らは何かを見るや否や、そこに創造的なるものを見出すのです。
  228. 彼が見ているあらゆる事物の背後に、またそれらの現象形態そのものの内に、常に創造的なるものがあるのです。
  229. ですから創造的に思考する人間は、至高の経験を手に入れようとして、あちこち走り回る必要がありません。認識と経験を積むには、今いるところが常に最善の場所なのです。
  230. 霊と意識は彼自身の中で育まれるのであって、どこか別の場所で育まれるのではありません。
  231. 彼は自分自身の思考と行動を通じて、霊と意識を育まなければなりません。
  232. これを認識することによって、その考え方は聖なるものとなります。彼とともにある万物も、足下の土でさえも聖なるものとなります。
  233. 創造的に思考する人間は、創造と自己の内部に宿る霊を経験すべき時を未来に見るのではなく、今この現在に見ています。それによって彼は、意識の貧しい普通の人間にとっては遠くはるかな未来に生きているのです。が、多くの場合、それは全く理解されません。
  234. 真に創造的に思考する人間にとって時とはいつかではなく、いつもこの現在を指すのです。
  235. 真実を見るために、彼に肉眼は必要ありません。
  236. 彼は自己の内部を探究し始めます。すると真実は彼にとってますます現実的なものとなります。なぜなら彼の物質的意識に代わって彼の霊がこの現在においてすべてを見るからです。
  237. どこで発せられた言葉であっても、聞き逃すことはありません。
  238. 急速な進歩を遂げるために、このような方向に生きる人間は耳に届くすべての音から真実の音を聞きます。こうしてあらゆる音が彼の物質的意識にまで到達し、そこに定着します。
  239. 同じようにあらゆる事物が彼に創造的なるもの、そして真実そのものを思い起こさせます。
  240. あらゆる状況は創造の状況であり、あらゆる機会は創造の機会です。
  241. 創造を意識した人間はこのような認識を持って生き、活動し、それによって内面的に前進します。
  242. この大いなるもの、すなわち霊的なものは、人間の深奥に存在しています。なぜなら真実を認識することによって、無限なものが有限なものの中に宿るからです。
  243. そしてこの無限なものはどんな人間の中にも宿っていますが、それを認識できる人間はごくわずかです。
  244. なぜなら無限なものを呼び覚ますためには、理性的な論理を必要とし、非現実的な教えに囚われてはならないからです。
  245. しかし人生の目的は無限なものを呼び覚まして発揮させること、つまり意識と霊を相対的に可能な限り完全なものとすることにあるのです。
  246. 意識の豊かな者は自らを、創造が霊の王国を表現するための道具とします。
  247. 創造のこの卓越性こそ、天国を興すものです。
  248. 意識の豊かな者は、あらゆる制約と、物質的で利己的な自我意識から解放されており、そのため常に創造そのものと接しているのです。
  249. 人間にあっては、いまなお物質的原理が圧倒的に重きをなしています。
  250. が、地球の学者たちは遠からず、物質の中に創造の原理を発見するでしょう。
  251. というのも創造はすべての被造物の中に、つまり自らを展開させ進歩させていく万物の中に含まれているからです。
  252. 制限を受けることのない霊と創造そのものだけが、真の自由、真の相対的に可能な限りの完全、真の認識、力、愛、知識、真実、そして英知を意味します。
  253. これらはすべて、その現実的な絶対性において創造そのものなのです。
  254. したがって、人間が人生で本当に卓越したものを獲得するためには、霊的なもの、無限なもの、制限され得ないものを拠り所としなければなりません。
  255. 制限されたものや制限され得るものはすべて、非現実的なものや、様々な問題をもたらします。
  256. どれほど魅力的に見えようとも、それはいつか問題や非現実的なものをもたらします。
  257. 様々な形態を持つ有限の事物は、内奥の本質、つまり霊にとって不自然なもの、人間にとって疎遠なものとなります。ですから人間はそれらを真実として認識し愛することはできません。さもなくば、人間は極めて大きな痛手を被ることになるでしょう。
  258. 有限な事物には、いつでも必ず何らかの欠点がつきまとっています。有限なものはすべて、様々な問題や困難を引き起こすからです。
  259. 人間が何か有限なものを愛するか所有すれば、少なくともそれはいつか必ず消滅するという欠点を持っています。
  260. 人間が人間的な愛の感覚に従って有限なものをいくら愛したとして、それは寿命が尽きれば消滅し、人間はそれを惜しんで悲しむのです。
  261. 制限されたものは、別の観点でも弱点を持っています。
  262. 制限されたものは、たとえすぐさま消滅しなくても、少なくとも必ず変化します。
  263. 制限されたものは瞬間的に人間的な愛で満たされたとしても、次の瞬間には人間的な憎しみが押し込みそれに満たされます。
  264. それが変化する事物であれ、消滅する事物であれ、あるいは隣人に対する態度を否定的に変化させる人間であれ、最後はいつも悲しみと苦しみだけが残ります。一方、制限され得ないものは、決して変転することも変化することもありません。なぜなら、それは限りない忠誠と絶対不変の価値を持っているからです。
  265. 人間の中で英知と真実が目覚め、意識的および霊的な知識が増すならば、そして普遍の愛が彼を導き、自分自身と他の人間の人生に祝福をもたらすならば、彼の中で真実の認識は熟したと言えます。
  266. その時彼は自分の中に創造の一部を、霊、すなわち霊の王国を意識するでしょう。
  267. 霊的な愛と英知の中にこそ、創造は宿ります。
  268. 霊的な光と霊的な愛のために闘う者に、創造への扉が開かれます。
  269. 人間が真実を愛するならば、相対的に完全なものや奇跡に満ちたもの、そして霊の王国を自らの内に体現したものを愛するでしょう。なぜなら、それは英知の王国へと至る道でもあるからです。
  270. だから人間よ、創造の遍在を意識し、万物から霊的知性の輝きを引き出しなさい。
  271. 広大で無限の果てしない宇宙空間にあっても、創造的なるものの目が自分に向けられていること、そして真の知性とは創造に他ならず、すべてを見守る目と、すべてに答えることのできる感覚で自分を見ていることを認識しなさい。
  272. 創造的なるものの目のもとで、意識して霊的に生きるのです。無限の力を持った霊的なものを意識して生きるのです。人間は常にその力を意識していなければならないのです。
  273. そうすれば人間は決して無力になることはないでしょう。


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